山月記(6)
そうすれば、しまいに己は自分の過去を忘れ果(は)て、一匹の虎として狂(くる)い廻(まわ)り、今日のように途で君と出会っても故人(とも)と認(みと)めることなく、君を裂(さ)き喰(くろ)うて何の悔(くい)も感じないだろう。一体、獣でも人間でも、もとは何か他(ほか)のものだったんだろう。初めはそれを憶えているが、次第に忘れて了(しま)い、初めから今の形(かたち)のものだったと思い込んでいるのではないか?いや、そんな事はどうでもいい。己の中の人間の心がすっかり消えて了えば、恐らく、その方が、已はしあわせになれるだろう。だのに、己の中の人間は、その事を、この上なく恐しく感じているのだ。ああ、全く、どんなに、恐しく、哀(かな)しく、切(せつ)なく思っているだろう!已が人間だった記憶のなくなることを。この気持は誰にも分らない。
誰にも分らない。已と同じ身の上に成(な)った者でなければ。ところで、そうだ。已がすっかり人間でなくなって了う前に、一つ頼(たの)んで置(お)きたいことがある。