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山月記(11)

2023-07-17 来源:百合文库
本当は、先(ま)ず、この事の方(ほう)を先にお願いすべきだったのだ、己が人間だったなら。飢(う)え凍(こご)えようとする妻子のことよりも、己(おのれ)の乏しい詩業の方を気にかけおとているような男だから、こんな獣に身を堕(おと)すのだ。
そうして、附(つけ)加(くわ)えて言うことに、袁傪が嶺南からの帰(き)途(と)には決してこの途(みち)を通(とお)らないで欲しい、その時には自分が酔っていて故人(とも)を認(みと)めずに襲(おそ)いかかるかも知れないから。又、今別れてから、前(ぜん)方(ぽう)百(ひゃっ)歩(ぽ)の所にある、あの丘(おか)に上(のぼ)ったら、此方(こちら)を振(ふ)りかえって見て貫いたい。自分は今の姿をもう一度お目に掛(か)けよう。勇(ゆう)に誇(ほこ)ろうとしてではない。我が醜悪な姿を示(しめ)して、以(もっ)て、再び此処(ここ)を過ぎて自分に会おうとの気持を君に起させない為(ため)であると。
袁傪は叢に向って、懇(ねんご)ろに別れの言葉を述(の)べ、馬に上(あが)った。叢の中からは、又、堪(た)え得(え)ざるが如(ごと)き悲(ひ)泣(きゅう)の声が洩(も)れた。袁傪も幾(いく)度(ど)か叢を振(ふり)返(かえ)りながら、涙の中(うち)に出発した。

山月記


一(いっ)行(こう)が丘の上についた時、彼等は、言われた通りに振(ふり)返(かえ)って、先(さき)程(ほど)の林(りん)間(かん)の草地を眺(なが)めた。忽ち、一匹の虎が草の茂(しげ)みから道の上に躍り出たのを彼等は見た。虎は、既(すで)に白(しろ)く光を失(うしな)った月を仰(あお)いで、二(ふた)声(ごえ)三(み)声(ごえ)咆(ほう)哮(こう)したかと思うと、又、元の叢に躍り入(い)って、再びその姿を見なかった。
底本:「李陵·山月記」新潮文庫、新潮社
1969(昭和44)年9月20日発行
入力:平松大樹
校正:林めぐみ
1998年11月12日公開
2004年2月5日修正
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