百合文库
首页 > 网文

山月記(5)

2023-07-17 来源:百合文库
今から一年程(ほど)前(まえ)、自分が旅に出て汝水のほとりに泊(とま)った夜のこと、一(いっ)睡(すい)してから、ふと眼(め)を覚(さ)ますと、戸(こ)外(がい)で誰かが我が名を呼(よ)んでいる。声に応(おう)じて外(そと)へ出て見ると、声は闇(やみ)の中から 頻(しき)りに自分を招(まね)く。覚(おぼ)えず、自分は声を追(お)うて走(はし)り出(だ)した。無(む)我(が)夢(む)中(ちゅう)で駈(か)けて行(い)く中(うち)に、何時(いつ)しか途(みち)は山(さん)林(りん)に入(はい)り、しかも、知らぬ間(ま)に自分は左(さ)右(ゆう)の手で地を攫(つか)んで走っていた。何か身体(からだ)中(じゅう)に力(ちから)が充(み)ち満(み)ちたような感(かん)じで、軽(かる)々(がる)と岩(がん)石(せき)を跳(と)び越(こ)えて行った。
気が付くと、手(て)先(さき)や肱(ひじ)のあたりに毛を生(しょう)じているらしい。少し明(あか)るくなってから、谷(たに)川(がわ)に臨(のぞ)んで姿を映(うつ)して見ると、既に虎となっていた。自分は初(はじ)め眼を信じなかった。次に、これは夢に違いないと考えた。夢の中で、これは夢だぞと知っているような夢を、自分はそれまでに見たことがあったから。どうしても夢でないと悟(さと)らねばならなかった時、自分は茫(ぼう)然(ぜん)とした。そうして懼(おそ)れた。全く、どんな事でも起(おこ)り得(う)るのだと思うて、深く懼れた。しかし、何故こんな事になったのだろう。分らぬ。全く何(なに)事(ごと)も我々には判(わか)らぬ。理(り)由(ゆう)も分らずに押(おし)付(つ)けられたものを大人(おとな)しく受(うけ)取(と)って、理由も分らずに生きて行くのが、我々生きもののさだめだ。

山月記


自分は直(す)ぐに死を想(おも)うた。しかし、その時、眼の前を一匹の兎(うさぎ)が駈け過(す)ぎるのを見た途(と)端(たん)に、自分の中の人間は忽ち姿を消(け)した。再び自分の中の人間が目を覚ました時、自分の口は兎の血に塗(まみ)れ、あたりには兎の毛(け)が散(ち)らばっていた。これが虎としての最(さい)初(しょ)の経(けい)験(けん)であった。それ以来今までにどんな所(しょ)行(ぎょう)をし続(つづ)けて来たか、それは到(とう)底(てい)語(かた)るに忍(しの)びない。ただ、一日の中に必ず数時間は、人間の心が還(かえ)って来(く)る。そういう時には、會ての日と同じく、人(じん)語(ご)も操(あやつ)れれば、複(ふく)雑(ざつ)な思(し)考(こう)にも堪(た)え得(う)るし、経(けい)書(しょう)の章(しょう)句(く)を誦(そら)んずることも出(で)来(き)る。
猜你喜欢