山月記(10)
山(やま)も樹(き)も月(つき)も露(つゆ)も、一匹の虎が怒(いか)り狂(くる)って、哮(たけ)っているとしか考えない。天(てん)に躍(おど)り地(ち)に伏(ふ)して嘆(なげ)いても、誰一人己の気持を分ってくれる者はない。ちょうど、人間だった頃(ごろ)、已の傷つき易(やす)い内心を誰も理解してくれなかったように。已の毛(け)皮(がわ)の濡(ぬ)れたのは、夜(よ)露(つゆ)のためばかりではない。
漸(ようや)く四辺(あたり)の暗さが薄(うす)らいで来た。木(こ)の間(ま)を伝って、何処(どこ)からか、暁(ぎょう)角(かく)が哀しげに響き始めた。
最早、別れを告げねばならぬ。酔(よ)わねばならぬ時が、(虎に還(かえ)らねばならぬ時が)近づいたから、と、李徴の声が言った。だが、お別れする前にもう一つ頼みがある。それは我が妻子のことだ。彼等は未だ虢略にいる。固より、己の運命に就(つ)いては知る筈(はず)がない。君が南から帰ったら、己は既に死んだと彼等に告(つ)げて貰えないだろうか。決(け)して今日のことだけは明(あ)かさないで欲しい。厚(あつ)かましいお願だが、彼等の孤(こ)弱(じゃく)を憐(あわ)れんで、今(こん)後(ご)とも道(どう)塗(と)に飢(き)凍(とう)することのないように計(はた)らって戴けるならば、自分にとって、恩(おん)倖(こう)、これに過ぎたるは莫(な)い。
言(いい)終(おわ)って、叢中から働(どう)哭(こく)の声が聞えた。袁もまた涙を泛(うか)べ、欣(よろこ)んで李徴の意(い)に副(そ)いたい旨(むね)を答えた。李徴の声はしかし忽(たちま)ち又先(せん)刻(こく)の自(じ)嘲(ちょう)的(てき)な調子に戻(もど)って、言った。