山月記(9)
かといって、又、已は俗(ぞく)物(ぶつ)の間(あいだ)に伍(ご)することも潔(いさぎよ)しとしなかった。共(とも)に、我(わ)が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所(せ)為(い)である。己(おのれ)の珠(たま)に非(あら)ざることを惧れるが故に、敢(あえ)て刻(こっ)苦(く)して磨(みが)こうともせず、又、已(おのれ)の珠なるべきを半ば信ずるが故(ゆえ)に、碌(ろく)々(ろく)として 瓦(かわら)に伍することも出来なかった。已は次第に世と離れ、人と遠(とお)ざかり、憤(ふん)悶(もん)と敷(ざん)恚(い)とによって益(ます)々(ます)己(おのれ)の内(うち)なる臆病な自尊心を飼(か)いふとらせる結果になった。人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが、各人の性(せい)情(じょう)だという。己の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。
虎だったのだ。これが已を損(そこな)い、妻子を苦しめ、友人を傷(きず)つけ、果(は)ては、己(おのれ)の外形をかくの如(ごと)く、内(ない)心(しん)にふさわしいものに変えて了ったのだ。今思えば、全く、己は、己(おのれ)の有(も)っていた僅(わず)かなばかりの才能を空(くう)費(ひ)して了った訳(わけ)だ。人生は何(なに)事(ごと)をも為(な)さぬには余(あま)りに長いが、何事かを為(な)すには余りに短いなどと口(くち)先(さき)ばかりの警(けい)句(く)を弄(ろう)しながら、事(じ)実(じつ)は、才能の不足を暴(ばく)露(ろ)するかも知れないとの卑(ひ)怯(きょう)な危(き)惧(ぐ)と、刻苦を厭(いと)う怠(たい)惰(だ)とが己の凡(すべ)てだったのだ。己よりも遥(はる)かに乏(とぼ)しい才能でありながら、それを専一に磨(みが)いたがために、堂(どう)々(どう)たる詩家となった者が幾らでもいるのだ。