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芥川龙之介:野吕宋木偶(双语)(3)

すると、大名の人形が、左手(ゆんで)を小さ刀(がたな)の柄(つか)にかけながら、右手(めて)の中啓(ちゅうけい)で、与六をさしまねいで、こう云う事を云いつける。――「天下治まり、目出度い御代なれば、かなたこなたにて宝合せをせらるるところ、なんじの知る通り、それがし方には、いまだ誇るべき宝がないによって、汝都へ上り、世に稀なるところの宝が有らば求めて参れ。」与六「へえ」大名「急げ」「へえ」「ええ」「へえ」「ええ」「へえさてさて殿様には……」――それから与六の長い Soliloque が始まった。
人形の出来は、はなはだ、簡単である。第一、着附の下に、足と云うものがない。口が開(あ)いたり、目が動いたりする後世の人形に比べれば、格段な相違である。手の指を動かす事はあるが、それも滅多(めった)にやらない。するのは、ただ身ぶりである。体を前後にまげたり、手を左右に動かしたりする――それよりほかには、何もしない。はなはだ、間ののびた、同時に、どこか鷹揚(おうよう)な、品のいいものである。僕は、人形に対して、再び、tranger の感を深くした。
アナトオル・フランスの書いたものに、こう云う一節がある、――時代と場所との制限を離れた美は、どこにもない。自分が、ある芸術の作品を悦ぶのは、その作品の生活に対する関係を、自分が発見した時に限るのである。Hissarlik の素焼の陶器は自分をして、よりイリアッドを愛せしめる。十三世紀におけるフィレンツェの生活を知らなかったとしたら、自分は神曲を、今日(こんにち)の如く鑑賞する事は出来なかったのに相違ない。自分は云う、あらゆる芸術の作品は、その製作の場所と時代とを知って、始めて、正当に愛し、かつ、理解し得られるのである。……
僕は、金色(こんじき)の背景の前に、悠長な動作を繰返している、藍の素袍(すおう)と茶の半上下(はんがみしも)とを見て、図(はか)らず、この一節を思い出した。僕たちの書いている小説も、いつかこの野呂松人形のようになる時が来はしないだろうか。僕たちは、時代と場所との制限をうけない美があると信じたがっている。僕たちのためにも、僕たちの尊敬する芸術家のためにも、そう信じて疑いたくないと思っている。しかし、それが、果して、そうありたいばかりでなく、そうある事であろうか。……
野呂松人形は、そうある事を否定する如く、木彫の白い顔を、金の歩衝(ついたて)の上で、動かしているのである。
狂言は、それから、すっぱが出て、与六を欺(だま)し、与六が帰って、大名の不興(ふきょう)を蒙(こうむ)る所で完(おわ)った。鳴物は、三味線のない芝居の囃(はや)しと能の囃しとを、一つにしたようなものである。
僕は、次の狂言を待つ間を、Kとも話さずに、ぼんやり、独り「朝日」をのんですごした。
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