第一章 島を出た少年(10)
僕はポッと息をつく。
「さすがにオモチャだよな」と、自分に言い聞かせるように口に出す。
空き缶を片付けた後で僕は公衆トイレで念入りに手を洗い、そういえば、と思い出してここに来たのだ。ポタージュスープ一杯では朝まで過ごさせてはくれないだろうけど、せめて外を步く気力が復活するまではどこか安心できる場所にいたかったのだ。
気を取り直して、僕は浮かせた腰を椅子に下ろした。ジーンズのケットをまさぐり、くしゃくしゃになった小さな紙をテーブルに置いた。
K&Aプランニング CEO 須賀圭介
フェリーで赤シャツからもらったその名刺には、小さな字で住所が書いてある。東京都新宿区山吹町 [やまぶきちよう] 。新宿区? 僕はグーグルマップにその住所を入れてみる。現在地からの経路は都バスで二十一分。意外に近かったのだ。
僕は紙コップのポタージュスープを両手で包み、最後の一口を大切にすする。窓の外では大な街頭テレビが雨に滲んで光っている。歌舞伎町の喧騒 [けんそう] が、イヤフォンの音漏れのように窓の向こうからかすかに届く。この住所を訪ねたとして――僕は考える。なにがあり得るだろうか? CEOって社長のことだよな。バイトの口を紹介してもらえたり? でも高校生に食事をたかるような人の会社がまともだとは思えないし。いやしかし持てよ、それでも社長ならばそれなりにお金は持っているのではないだろうか。それなのにあの時の食事代二千百ハ十円! 今さらに腹が立ってくる。僕は社長に奢 [おご] ったのか。チキン南蛮定食はお礼として仕方がないとしても、ビール代九百八十円は不当だったのではなかったか。事情を話してそれだけでも返してもらうべきではないか。
ちょっと格好悪いけれど、背に腹は代えられないのではないか。僕の窮状を知ったらあの人だって、案外簡単に返してくれるのではないか。
でも――僕はテーブルにうつぶせになる。
それはあまりに情けないんじゃないか。だいたい助けてもらったのは事実だし、ビールだって全部僕が自分から言い出して払ったのだ。僕はそんなさもしい行いをするために東京に来たのか。お金も居場所も目的もなく、痛いくらいの空腹を抱えて、僕はここでいったいなにをしているのか。東京になにを期待して来たのか。
あの日、殴られた痛みを打ち消すように自転車のべダルをめちゃくちゃに漕 [こ] いでいた。あの日もたしか、島は雨だった。空を分厚い雨雲が流れ、でもその隙間から、幾つも光の筋が伸びていた。僕はあの光を追ったのだ。あの光に追いつきたくて、あの光に入りたくて、海岸沿いの道を自転車で必死に走ったのだ。追いついた! と思った瞬間、でもそこは海岸の崖端 [がけばた] で、陽射しは海のずっと向こうまで流れて行ってしまった。
「さすがにオモチャだよな」と、自分に言い聞かせるように口に出す。
空き缶を片付けた後で僕は公衆トイレで念入りに手を洗い、そういえば、と思い出してここに来たのだ。ポタージュスープ一杯では朝まで過ごさせてはくれないだろうけど、せめて外を步く気力が復活するまではどこか安心できる場所にいたかったのだ。
気を取り直して、僕は浮かせた腰を椅子に下ろした。ジーンズのケットをまさぐり、くしゃくしゃになった小さな紙をテーブルに置いた。
K&Aプランニング CEO 須賀圭介
フェリーで赤シャツからもらったその名刺には、小さな字で住所が書いてある。東京都新宿区山吹町 [やまぶきちよう] 。新宿区? 僕はグーグルマップにその住所を入れてみる。現在地からの経路は都バスで二十一分。意外に近かったのだ。
僕は紙コップのポタージュスープを両手で包み、最後の一口を大切にすする。窓の外では大な街頭テレビが雨に滲んで光っている。歌舞伎町の喧騒 [けんそう] が、イヤフォンの音漏れのように窓の向こうからかすかに届く。この住所を訪ねたとして――僕は考える。なにがあり得るだろうか? CEOって社長のことだよな。バイトの口を紹介してもらえたり? でも高校生に食事をたかるような人の会社がまともだとは思えないし。いやしかし持てよ、それでも社長ならばそれなりにお金は持っているのではないだろうか。それなのにあの時の食事代二千百ハ十円! 今さらに腹が立ってくる。僕は社長に奢 [おご] ったのか。チキン南蛮定食はお礼として仕方がないとしても、ビール代九百八十円は不当だったのではなかったか。事情を話してそれだけでも返してもらうべきではないか。
ちょっと格好悪いけれど、背に腹は代えられないのではないか。僕の窮状を知ったらあの人だって、案外簡単に返してくれるのではないか。
でも――僕はテーブルにうつぶせになる。
それはあまりに情けないんじゃないか。だいたい助けてもらったのは事実だし、ビールだって全部僕が自分から言い出して払ったのだ。僕はそんなさもしい行いをするために東京に来たのか。お金も居場所も目的もなく、痛いくらいの空腹を抱えて、僕はここでいったいなにをしているのか。東京になにを期待して来たのか。
あの日、殴られた痛みを打ち消すように自転車のべダルをめちゃくちゃに漕 [こ] いでいた。あの日もたしか、島は雨だった。空を分厚い雨雲が流れ、でもその隙間から、幾つも光の筋が伸びていた。僕はあの光を追ったのだ。あの光に追いつきたくて、あの光に入りたくて、海岸沿いの道を自転車で必死に走ったのだ。追いついた! と思った瞬間、でもそこは海岸の崖端 [がけばた] で、陽射しは海のずっと向こうまで流れて行ってしまった。