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【日本历史】——《世界遗产军舰岛》(5)

2023-10-28 来源:百合文库
《端島炭礦は、炭層が45度と急傾斜のため、足場の悪い中での重労働はこたえた。すぐ目の前で畳2、3枚ほどの岩盤が落ちたこともある。
 命がけだったが、採炭係の給料は歩合制で、働けば働くほど増えた。「初任給は1万7000円。それまで勤めていた製粉工場の6カ月分だった」》(『朝日新聞』1995年6月29日)
島には木造の学校がありましたが、昭和33年(1958年)、鉄筋コンクリートの巨大校舎が完成します。後に増築され、7階建てとなりました。4階までが小学校、上の3階が中学校。エレベーターがないので、職員室は上にも下にもすぐに行けるよう、3階に作られていました。
军舰岛上的中学生徒が運動場を使えるのは午後5時まで。その後は大人に開放することになっており、そのため運動場にはナイター設備が完備されていました。子供たちは、校庭以外では、島のプールや地下のピンポン場で遊ぶしかありませんでした。放課後、子供たちが集まる場所は、アパートとアパートの間にある狭い「ビー玉広場」でした。昭和43年(1968年)、『少年マガジン』がこの島の教師を取材しています。教育の現場でいちばん困るのは何かと聞かれ、「生徒の浪費癖」と答えています。

【日本历史】——《世界遗产军舰岛》


《アパートでは費用を会社がもつので、電気も水道もただ。家賃は、1か月3円という安さ。だから、生徒は、電気はつけっぱなし、水道は出しっぱなし、落とし物は取りに来ない……。学校では、「よごさない、すてない、こわさない。」という、「3ない運動」で生徒をしつけているそうだ》(『少年マガジン』1968年30号)
当時、島には三輪トラックが3台しかありませんでしたが、数年前に交通事故で子供が亡くなっており、以後、トラックの前を赤い旗を持った人が走ることになっていました。
 最盛期だった1959年には、島には5259人が住んでおり、これは世界最大の人口密度でした。『少年マガジン』30号には3800人と書かれています。硫黄分の少ない端島の炭質は世界一といわれましたが、炭層が1000mを超え、徐々に採算がとりづらくなってきました。保安上の問題や石油へのエネルギー転換もあり、1974年1月15日、閉山となりました。

【日本历史】——《世界遗产军舰岛》


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