【日本历史】——《世界遗产军舰岛》(2)
会社は、坑夫をほかの竪坑に振り分けますが、規模が小さいため、やむなく一部を坑外の仕事に就かせます。しかし、当然、給料は安くなるため、不満が続出しました。
4月13日、今度は第2竪坑に海水が浸入し、作業のリスクが高まりました。坑夫たちは会社にハシゴを掛けるよう要求、会社は72間(130m)のハシゴを設置することに同意します。
しかし、坑夫たちはこれだけでは納得せず、坑内エレベーターの設置を求めるのです。
その勢いで、坑夫たちは賃金引き上げを要求、同時にストライキを始めました。
現場に、不穏な空気が流れ始めます。
長崎からは多くの警官が来て、坑夫たちの説得に当たりますが、効果はありません。
困った会社側は、ついに全員解雇を決定。
この決断に驚いたのは坑夫側でした。労務管理のトップである納屋頭らが、今度は「なんとか半分だけでも雇ってくれ」と泣きを入れます。しかし、会社が半数だけを雇用した場合、坑夫たちの間で争いが起きるのは必至でした(『都新聞』明治30年4月23日による)。
こうして、端島初のストライキは収束します。
このエピソードを見る限り、「強制労働」といったニュアンスは感じられません。
騒動後、端島では納屋制度が廃止され、近代的な労務管理が始まりました。
军舰岛上第一个矿坑明治34年(1901年)2月5日、官営製鉄所(八幡製鉄所)が開業すると、高品質の端島の石炭は高い評価を受けるようになります。
炭坑の深さはどんどん深くなり、人口も増え始めます。