【日本历史】——《世界遗产军舰岛》(3)
大正10年(1921年)、高層ビルがそそり立った端島が、遠望するとまるで「軍艦土佐」のように見えることから、長崎日日新聞が「軍艦島」と命名します。
炭坑は24時間フル操業し、深夜も煌々と灯りがついていて、「不夜城」とも呼ばれるようになりました。ちなみに電気は海底ケーブルで送られていました。
下の写真は昭和4年(1929年)頃の軍艦島全景です。この写真を解説しておきます。
島の最高地点は海水をくみ上げるタンクで、右側のやぐら下が竪坑。当時でも地下350mまでありました。
左方にあるのが30号棟で、その前が、朝鮮人労働者用の木造平屋住宅。島のお偉いさんは、丘の中腹に作られた木造2階建てに住んでいました。このころはまだアパートが6棟しかなく、人口も3300人程度でした。
ちなみに、一番左にあるのがテニスコートです。
1929年的军舰岛 昭和8年(1933年)、流行作家の江見水蔭が軍艦島を訪れました。
初めて見た軍艦島を《竜宮城の如く各建築の電灯が輝き渡り、海上デパートかと疑われた》と書き、興奮しながら早朝の島に上陸します。
《左手に近江の三上山を7巻半巻いたという大百足(むかで)の怪物の如き大鉄管。それは坑内への通風管だという。この桟道は、栄螺堂の階段式に、幾曲がりもしている。上方から、突然、頭部を爛々(らんらん)と光らしている一目入道の怪物の群が、急ぎ足で降って来る。それは地下労働の鉱夫の更迭(=交代)で、携帯電灯を、額に附けているのと知れた》(『水蔭行脚全集』第5巻より)
1929年的军舰岛(据我所知,1階には青果店や雑貨屋があり、2階以上が住宅。通常、1世帯が6畳3畳の2部屋で、家賃は畳1枚で5銭、つまり、1世帯あたり月45銭程度。当時鉛筆1本が5銭、牛乳1本が6銭程度だったので、家賃は激安でした)