「人でなしの恋」(青空文库版)索尼YOMIBITO有声书文本(10)
門野の声ははっきりと、妙に切口上きりこうじょうに、せりふめいて、私の心に食い入る様に響いて来るのでございます。
「嬉しうございます。あなたの様な美しい方に、あの御立派な奥様をさし置いて、それほどに思って頂くとは、私はまあ、何という果報者かほうものでしょう。嬉しうございますわ」
そして、極度に鋭敏になった私の耳は、女が門野の膝ひざにでももたれたらしい気勢けはいを感じるのでございます。……………………………………………………………………………………
まあ御想像なすっても下さいませ。私のその時の心持がどの様でございましたか。もし今の年でしたら、何の構うことがあるものですか、いきなり、戸を叩き破ってでも、二人のそばへ駈込んで、恨みつらみのありたけを、並べもしたでしょうけれど、何を申すにも、まだ小娘の当時では、とてもその様な勇気が出るものではございません。込み上げて来る悲しさを、袂たもとの端で、じっと押えて、おろおろと、その場を立去りも得えせず、死ぬる思いを続けたことでございます。
やがて、ハッと気がつきますと、ハタハタと、板いたの間まを歩く音がして、誰かが落し戸の方へ近づいて参るのでございます。今ここで顔を合わせては、私にしましても、又先方にしましても、あんまり恥かしいことですから、私は急いで梯子段を下おりると、蔵の外へ出て、その辺の暗闇へ、そっと身をひそめ、一つには、そうして女奴めの顔をよく見覚えてやりましょうと、恨みに燃える目をみはったのでございます。ガタガタと、落し戸を開く音がして、パッと明りがさし、雪洞を片手に、それでも足音を忍ばせて下りて来ましたのは、まごう方かたなき私の夫、そのあとに続く奴めと、いきまいて待てど暮せど、もうあの人は、蔵の大戸をガラガラと締めて、私の隠れている前を通り過ぎ、庭下駄の音が遠ざかっていったのに、女は下りて来る気勢もないのでございます。
蔵のことゆえ一方口で、窓はあっても、皆金網で張りつめてありますので、外ほかに出口はない筈。それが、こんなに待っても、戸の開く気勢も見えぬのは、余りといえば不思議なことでございます。第一、門野が、そんな大切な女を一人あとに残して、立去る訳もありません。これはもしや、長い間の企たくらみで、蔵のどこかに、秘密な抜け穴でも拵こしらえてあるのではなかろうか。そう思えば、真っ暗な穴の中を、恋に狂った女が、男にあいたさ一心で、怖わさも忘れ、ゴソゴソと匍はっている景色が幻の様に目に浮かび、その幽かすかな物音さえも聞える様で、私は俄に、そんな闇の中に一人でいるのが怖こわくなったのでございます。また夫が私のいないのを不審に思ってはと、それも気がかりなものですから、兎も角も、その晩は、それだけで、母屋の方へ引返ひきかえすことにいたしました。
「嬉しうございます。あなたの様な美しい方に、あの御立派な奥様をさし置いて、それほどに思って頂くとは、私はまあ、何という果報者かほうものでしょう。嬉しうございますわ」
そして、極度に鋭敏になった私の耳は、女が門野の膝ひざにでももたれたらしい気勢けはいを感じるのでございます。……………………………………………………………………………………
まあ御想像なすっても下さいませ。私のその時の心持がどの様でございましたか。もし今の年でしたら、何の構うことがあるものですか、いきなり、戸を叩き破ってでも、二人のそばへ駈込んで、恨みつらみのありたけを、並べもしたでしょうけれど、何を申すにも、まだ小娘の当時では、とてもその様な勇気が出るものではございません。込み上げて来る悲しさを、袂たもとの端で、じっと押えて、おろおろと、その場を立去りも得えせず、死ぬる思いを続けたことでございます。
やがて、ハッと気がつきますと、ハタハタと、板いたの間まを歩く音がして、誰かが落し戸の方へ近づいて参るのでございます。今ここで顔を合わせては、私にしましても、又先方にしましても、あんまり恥かしいことですから、私は急いで梯子段を下おりると、蔵の外へ出て、その辺の暗闇へ、そっと身をひそめ、一つには、そうして女奴めの顔をよく見覚えてやりましょうと、恨みに燃える目をみはったのでございます。ガタガタと、落し戸を開く音がして、パッと明りがさし、雪洞を片手に、それでも足音を忍ばせて下りて来ましたのは、まごう方かたなき私の夫、そのあとに続く奴めと、いきまいて待てど暮せど、もうあの人は、蔵の大戸をガラガラと締めて、私の隠れている前を通り過ぎ、庭下駄の音が遠ざかっていったのに、女は下りて来る気勢もないのでございます。
蔵のことゆえ一方口で、窓はあっても、皆金網で張りつめてありますので、外ほかに出口はない筈。それが、こんなに待っても、戸の開く気勢も見えぬのは、余りといえば不思議なことでございます。第一、門野が、そんな大切な女を一人あとに残して、立去る訳もありません。これはもしや、長い間の企たくらみで、蔵のどこかに、秘密な抜け穴でも拵こしらえてあるのではなかろうか。そう思えば、真っ暗な穴の中を、恋に狂った女が、男にあいたさ一心で、怖わさも忘れ、ゴソゴソと匍はっている景色が幻の様に目に浮かび、その幽かすかな物音さえも聞える様で、私は俄に、そんな闇の中に一人でいるのが怖こわくなったのでございます。また夫が私のいないのを不審に思ってはと、それも気がかりなものですから、兎も角も、その晩は、それだけで、母屋の方へ引返ひきかえすことにいたしました。