「人でなしの恋」(青空文库版)索尼YOMIBITO有声书文本(11)
六
それ以来、私は幾度闇夜の蔵へ忍んで参ったことでございましょう。そして、そこで、夫達の様々の睦言むつごとを立聞きしては、どの様に、身も世もあらぬ思いをいたしたことでございましょう。その度毎たびごとに、どうかして相手の女を見てやりましょうと、色々に苦心をしたのですけれど、いつも最初の晩の通り、蔵から出て来るのは夫の門野だけで、女の姿なぞはチラリとも見えはしないのでございます。ある時はマッチを用意して行きまして、夫が立去るのを見すまし、ソッと蔵の二階へ上あがって、マッチの光でその辺を探し廻ったこともありましたが、どこへ隠れる暇いとまもないのに、女の姿はもう影もささぬのでございます。またある時は、夫の隙を窺って、昼間、蔵の中へ忍び込み、隅から隅を覗き廻って、もしや抜け道でもありはしないか、又ひょっとして、窓の金網でも破れてはしないかと、様々に検べて見たのですけれど、蔵の中には、鼠ねずみ一匹逃げ出す隙間も見当たらぬのでございました。
何という不思議でございましょう。それを確めますと、私はもう、悲しさ口惜くやしさよりも、いうにいわれぬ不気味さに、思わずゾッとしないではいられませんでした。そうしてその翌晩になれば、どこから忍んで参るのか、やっぱり、いつもの艶なまめかしい囁き声が、夫との睦言を繰返くりかえし、又幽霊の様に、いずことも知れず消え去ってしまうのでございます。もしや何かの生霊いきりょうが、門野に魅入みいっているのではないでしょうか。生来憂鬱で、どことなく普通の人と違った所のある、蛇を思わせる様な門野には(それ故ゆえに又、私はあれほども、あの人に魅せられていたのかも知れません)そうした、生霊という様な、異形いぎょうのものが、魅入り易いのではありますまいか。などと考えますと、はては、門野自身が、何かこう魔性ましょうのものにさえ見え出して、何とも形容の出来ない、変な気持になって参るのでございます。
一いっそのこと、里へ帰って、一伍一什いちぶしじゅうを話そうか、それとも、門野の親御さま達に、このことをお知らせしようか、私は余りの怖わさ不気味さに幾度いくたびかそれを決心しかけたのですけれど、でも、まるで雲を掴む様な、怪談めいた事柄を、うかつにいい出しては頭から笑われそうで、却て恥をかく様なことがあってはならぬと、娘心にもヤッと堪こらえて、一日二日と、その決心を延ばしていたのでございます。考えて見ますと、その時分から、私は随分きかん坊でもあったのでございますわね。
それ以来、私は幾度闇夜の蔵へ忍んで参ったことでございましょう。そして、そこで、夫達の様々の睦言むつごとを立聞きしては、どの様に、身も世もあらぬ思いをいたしたことでございましょう。その度毎たびごとに、どうかして相手の女を見てやりましょうと、色々に苦心をしたのですけれど、いつも最初の晩の通り、蔵から出て来るのは夫の門野だけで、女の姿なぞはチラリとも見えはしないのでございます。ある時はマッチを用意して行きまして、夫が立去るのを見すまし、ソッと蔵の二階へ上あがって、マッチの光でその辺を探し廻ったこともありましたが、どこへ隠れる暇いとまもないのに、女の姿はもう影もささぬのでございます。またある時は、夫の隙を窺って、昼間、蔵の中へ忍び込み、隅から隅を覗き廻って、もしや抜け道でもありはしないか、又ひょっとして、窓の金網でも破れてはしないかと、様々に検べて見たのですけれど、蔵の中には、鼠ねずみ一匹逃げ出す隙間も見当たらぬのでございました。
何という不思議でございましょう。それを確めますと、私はもう、悲しさ口惜くやしさよりも、いうにいわれぬ不気味さに、思わずゾッとしないではいられませんでした。そうしてその翌晩になれば、どこから忍んで参るのか、やっぱり、いつもの艶なまめかしい囁き声が、夫との睦言を繰返くりかえし、又幽霊の様に、いずことも知れず消え去ってしまうのでございます。もしや何かの生霊いきりょうが、門野に魅入みいっているのではないでしょうか。生来憂鬱で、どことなく普通の人と違った所のある、蛇を思わせる様な門野には(それ故ゆえに又、私はあれほども、あの人に魅せられていたのかも知れません)そうした、生霊という様な、異形いぎょうのものが、魅入り易いのではありますまいか。などと考えますと、はては、門野自身が、何かこう魔性ましょうのものにさえ見え出して、何とも形容の出来ない、変な気持になって参るのでございます。
一いっそのこと、里へ帰って、一伍一什いちぶしじゅうを話そうか、それとも、門野の親御さま達に、このことをお知らせしようか、私は余りの怖わさ不気味さに幾度いくたびかそれを決心しかけたのですけれど、でも、まるで雲を掴む様な、怪談めいた事柄を、うかつにいい出しては頭から笑われそうで、却て恥をかく様なことがあってはならぬと、娘心にもヤッと堪こらえて、一日二日と、その決心を延ばしていたのでございます。考えて見ますと、その時分から、私は随分きかん坊でもあったのでございますわね。