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序章 君に聞いた物語(2)

デッキテラスに出ると、冷たい風が雨とともにどっと顔を打った。その全部を飲み込むようにして、僕は大きく息を吸い込む。風はまだ冷たいけれど、そこには春の気配がたっぷりと含まれている。ようや高校を卒業したんだ――その実感が、遅れた通知のように今さらに胸に届く。僕はデッキの手すりに肘 [ひじ] を乗せ、遠ざかっていく島を眺め、風卷く空に目を移す。視界のはるか彼方 [かなた] まで、数え切れない雨粒が舞っている。
そのとたん――ぞわりと、全身の肌が粟 [あわだ] 立った。
まただ。思わずきつく目を閉じる。じっとしている僕の顔を雨が叩 [たた] き、耳朶 [じだ] には雨音が響き続ける。この二年半、雨は常にそこにあった。どんなに息を殺しても決して消せない鼓動のように。どんなに強くつむっても完全な闇には出来ない瞼 [まぶた] のように。どんなに静めても片時も沈默できない心のように。
ゆっくりと息を吐きながら、僕は目を開ける。
雨。
呼吸をするようにうねる黑い海面に、雨が際限なく吸い込まれていく。まるで空と海が共謀して、いたずらに海面を押し上げようとしているかのようだ。僕は怖くなる。身体の奧底から震えが湧きあがってくる。引き裂かれそうになる。ばらばらになりそうになる。僕は手すりをぎゅっと摑 [つか] む。鼻から深く息を吸う。そしていつものように、あのじんのことを思い出す。彼女の大きな瞳 [ひとみ] や、よく動く表情や、ころころ変わる声のトーンや、二つに結んだ長い髮を。そして、大丈夫だ、と思う。彼女がいる。東京で彼女が生きている。彼女がいるかぎり、僕はこの世界にしっかりと繋 [つな] ぎとめられている。

序章   君に聞いた物語


「――だから、泣かないで、帆 [ほ] 高 [だか] 」
と、あの夜、彼女は言った。逃げ込んだ池袋のホテル。天井を叩く雨の音が、遠い太鼓のようだった。同じシャンプーの香りと、なにもかもを許したような彼女の優し声と、闇に青白く光る彼女の肌。それらはあまりに鮮明で、僕はふと、今も自分があの場所にいるような気持ちに襲われる。本当の僕たちは今もあのホテルにいて、僕はたまたまのデジャヴのように、未来の自分がフェリーに乗っている姿を想像しただけなのではないか。昨日の卒業式もこのフェリーもぜんぶ錯覚で、本当の僕は今もあのホテルのベッドの上なのではないか。そして朝起きると雨は止んでいて、彼女も僕の隣にいて、世界はいつもと同じ姿のまま、変わらめ日常が再開するのではないか。
汽笛が鋭く鳴った。
違う、そうじゃない。僕は手すりの鉄の感触を確かめ、潮の匂いを確かめ、水平線に消えかかっている島影を確かめる。そうじゃない、今はあの夜ではない。あれはもうずっと前のことだ。フェリーに摇られているこの自分が、今の本当の僕だ。きちんと考えよう。最初から思い出そう。雨をにらみながら僕はそう思う。彼女に再会する前に、僕たちに起きたことを理解しておかなければ。いや、たとえ理解は出来なくても、せめて考え尽くさなければ。
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