金色之死 (谷崎润一郎) 上(12)
「そのくらいなら、君は音楽家になったらいゝじゃないか。」
「ところが不幸にして、僕の耳は僕の眼のように発達して居ないから、音響に依る美感と云うものをそれ程強く感受する事が出来ない。音楽は美感を人に起させる形式に於いて優れて居るけれど、美感そのものゝ内容に至っては何だか稀薄なように思われる。だから僕の最も理想的な芸術と云えば、眼で見た美しさを成る可く音楽的な方法で描写する事にあるんだ。」
「そんなむずかしい事が出来るつもりなのかい。」
「出来ないまでも努力して見ようと思うのさ。―――そこで又レッシングの攻撃に戻るが、ラオコオンの眼目とも云うべきものは、要するに詩の範囲と絵の範囲とを制限した以下の二つの文章に帰着して居る。曰く『絵画は事物の共存状態コエキジスチーレンを構図とするが故に、或る動作の唯一瞬間をのみ捕捉する事を得。随って其の前後の経過を暗示せしむるに足る可き最も含蓄ある瞬間を択ばざる可からず。』曰く『同様に詩文は又事物の進行状態を描写するが故に、或る形体に就いて唯一つの特徴をのみ捕捉する事を得。随って一局面より形体全部の象を最も明瞭に髣髴たらしむ可き特徴を択ばざる可からず。』―――大体こんな意味になるだろう。先ず第一の定義からして僕には随分反対の点がある。成る程絵画は事物の共存状態を描くには違いない。けれども前後の経過を了解せしむるに足る含蓄ある瞬間を択ばなければならないと云う理屈が何処にあるだろう。
絵画の興味は、画題に供せられた事件若しくは小説に存するのではない。たとえばロダンの作物の中に一人の人間が一人の人間の死骸を抱いて居る彫刻があって、其れに『サッフォの死』と云う題が付けられて居たとするね。ところで其の作品から美感を味わう為には、是非共サッフォの伝記を知らなければならないのだろうか。其瞬間の前後の経過を了解しなければならないのだろうか………。」