斗车(トロッコ)-芥川龍之介(2)
2023-05-29 来源:百合文库
その内に彼是 かれこれ 十間程来ると、線路の勾配 こうばい が急になり出した。トロツコも三人の力では、いくら押しても動かなくなつた。どうかすれば車と一しよに、押し戻されさうにもなる事がある。良平はもう好いと思つたから、年下の二人に合図をした。
「さあ、乗らう?」
彼等は一度に手をはなすと、トロツコの上へ飛び乗つた。トロツコは最初徐 おもむ ろに、それから見る見る勢よく、一息に線路を下り出した。その途端につき当りの風景は、忽 たちま ち両側へ分かれるやうに、ずんずん目の前へ展開して来る。――良平は顔に吹きつける日の暮の風を感じながら殆ど有頂天になつてしまつた。
しかしトロツコは二三分の後、もうもとの終点に止まつてゐた。
「さあ、もう一度押すぢやあ。」
良平は年下の二人と一しよに、又トロツコを押し上げにかかつた。が、まだ車輪も動かない内に、突然彼等の後 うしろ には、誰かの足音が聞え出した。のみならずそれは聞え出したと思ふと、急にかう云ふ怒鳴り声に変つた。
「この野郎! 誰に断 ことわ つてトロに触 さは つた?」
其処には古い印袢纏 しるしばんてん に、季節外れの麦藁帽 むぎわらぼう をかぶつた、背の高い土工が佇んでゐる。――さう云ふ姿が目にはひつた時、良平は年下の二人と一しよに、もう五六間逃げ出してゐた。――それぎり良平は使の帰りに、人気 ひとけ のない工事場のトロツコを見ても、二度と乗つて見ようと思つた事はない。唯その時の土工の姿は、今でも良平の頭の何処かに、はつきりした記憶を残してゐる。薄明りの中に仄 ほの めいた、小さい黄色の麦藁帽、――しかしその記憶さへも、年毎に色彩は薄れるらしい。
その後十日余りたつてから、良平は又たつた一人、午 ひる 過ぎの工事場に佇みながら、トロツコの来るのを眺めてゐた。すると土を積んだトロツコの外に、枕木を積んだトロツコが一輛、これは本線になる筈 はず の、太い線路を登つて来た。このトロツコを押してゐるのは、二人とも若い男だつた。良平は彼等を見た時から、何だか親しみ易いやうな気がした。「この人たちならば叱られない。」――彼はさう思ひながら、トロツコの側へ駈けて行つた。
「さあ、乗らう?」
彼等は一度に手をはなすと、トロツコの上へ飛び乗つた。トロツコは最初徐 おもむ ろに、それから見る見る勢よく、一息に線路を下り出した。その途端につき当りの風景は、忽 たちま ち両側へ分かれるやうに、ずんずん目の前へ展開して来る。――良平は顔に吹きつける日の暮の風を感じながら殆ど有頂天になつてしまつた。
しかしトロツコは二三分の後、もうもとの終点に止まつてゐた。
「さあ、もう一度押すぢやあ。」
良平は年下の二人と一しよに、又トロツコを押し上げにかかつた。が、まだ車輪も動かない内に、突然彼等の後 うしろ には、誰かの足音が聞え出した。のみならずそれは聞え出したと思ふと、急にかう云ふ怒鳴り声に変つた。
「この野郎! 誰に断 ことわ つてトロに触 さは つた?」
其処には古い印袢纏 しるしばんてん に、季節外れの麦藁帽 むぎわらぼう をかぶつた、背の高い土工が佇んでゐる。――さう云ふ姿が目にはひつた時、良平は年下の二人と一しよに、もう五六間逃げ出してゐた。――それぎり良平は使の帰りに、人気 ひとけ のない工事場のトロツコを見ても、二度と乗つて見ようと思つた事はない。唯その時の土工の姿は、今でも良平の頭の何処かに、はつきりした記憶を残してゐる。薄明りの中に仄 ほの めいた、小さい黄色の麦藁帽、――しかしその記憶さへも、年毎に色彩は薄れるらしい。
その後十日余りたつてから、良平は又たつた一人、午 ひる 過ぎの工事場に佇みながら、トロツコの来るのを眺めてゐた。すると土を積んだトロツコの外に、枕木を積んだトロツコが一輛、これは本線になる筈 はず の、太い線路を登つて来た。このトロツコを押してゐるのは、二人とも若い男だつた。良平は彼等を見た時から、何だか親しみ易いやうな気がした。「この人たちならば叱られない。」――彼はさう思ひながら、トロツコの側へ駈けて行つた。