「人でなしの恋」(青空文库版)索尼YOMIBITO有声书文本(19)
そうして、どれほど待ったことでしょう。待っても待っても、夫は帰って来ないのでございます。壊こわれた人形を見た上は、蔵の中に何の用事もない筈のあの人が、もういつもほどの時間もたったのになぜ帰って来ないのでしょう。もしかしたら、相手はやっぱり人形ではなくて、生きた人間だったのでありましょうか。それを思うと気が気でなく、私はもう辛抱がしきれなくて、床とこから起き上りますと、もう一つの雪洞を用意して、闇のしげみを蔵の方へと走るのでございました。
蔵の梯子段を駈上りながら、見れば例の落し戸は、いつになく開いたまま、それでも上には雪洞がともっていると見え、赤茶けた光りが、階段の下までも、ぼんやり照しております。ある予感にハッと胸を躍おどらせて、一飛びに階上へ飛上って、「旦那様」と叫びながら、雪洞のあかりにすかして見ますと、ああ私の不吉な予感は適中したのでございました。そこには夫のと、人形のと、二つのむくろが折り重なって、板いたの間まは血潮ちしおの海、二人のそばに家重代いえじゅうだいの名刀が、血を啜すすってころがっているのでございます。人間と土くれとの情死、それが滑稽に見えるどころか、何とも知れぬ厳粛げんしゅくなものが、サーッと私の胸を引しめて、声も出ず涙も出ず、ただもう茫然ぼうぜんと、そこに立ちつくす外はないのでございました。