死のかげの谷(3)
2023-03-19起风了 来源:百合文库
やっと真夜中近くになって父は着いた。しかしお前はそういう父をちらりと見ながら、脣くちびるのまわりにふと微笑ともつかないようなものを漂わせたきりだった。父は何も云わずにそんなお前の憔悴しょうすいし切った顔をじっと見守っていた。そうしてはときおり私の方へいかにも不安そうな目を向けた。が、私はそれには気がつかないようなふりをして、唯、お前の方ばかりを見るともなしに見やっていた。そのうちに突然お前が何か口ごもったような気がしたので、私がお前の傍に寄ってゆくと、殆ど聞えるか聞えない位の小さな声で、「あなたの髪に雪がついているの……」とお前は私に向って云った。――いま、こうやって一人きりで火の傍にうずくまりながら、ふいと蘇ったそんな思い出に誘われるようにして、私が何んの気なしに自分の手を頭髪に持っていって見ると、それはまだ濡れるともなく濡れていて、冷めたかった。
私はそうやって見るまで、それには少しも気がつかずにいた。……
十二月五日
この数日、云いようもないほどよい天気だ。朝のうちはヴェランダ一ぱいに日が射し込んでいて、風もなく、とても温かだ。けさなどはとうとうそのヴェランダに小さな卓や椅子を持ち出して、まだ一面に雪に埋もれた谷を前にしながら、朝食をはじめた位だ。本当にこうして一人っきりでいるのはなんだか勿体もったいないようだ、と思いながら朝食に向っているうち、ひょいとすぐ目の前の枯れた灌木かんぼくの根もとへ目をやると、いつのまにか雉子きじが来ている。それも二羽、雪の中に餌をあさりながら、ごそごそと歩きまわっている……
「おい、来て御覧、雉子が来ているぞ」
私は恰あたかもお前が小屋の中に居でもするかのように想像して、声を低めてそう一人ごちながら、じっと息をつめてその雉子を見守っていた。お前がうっかり足音でも立てはしまいかと、それまで気づかいながら……
その途端、どこかの小屋で、屋根の雪がどおっと谷じゅうに響きわたるような音を立てながら雪崩なだれ落ちた。私は思わずどきりとしながら、まるで自分の足もとからのように二羽の雉子が飛び立ってゆくのを呆気にとられて見ていた。そのとき殆ど同時に、私は自分のすぐ傍に立ったまま、お前がそういう時の癖で、何も言わずに、ただ大きく目をみはりながら私をじっと見つめているのを、苦しいほどまざまざと感じた。
午後、私ははじめて谷の小屋を下りて、雪の中に埋まった村を一周りした。夏から秋にかけてしかこの村を知っていない私には、いま一様に雪をかぶっている森だの、道だの、釘づけになった小屋だのが、どれもこれも見覚えがありそうでいて、どうしてもその以前の姿を思い出されなかった。昔、私が好んで歩きまわった水車の道
に沿って、いつか私の知らない間に、小さなカトリック教会さえ出来ていた。しかもその美しい素木造しらきづくりの教会は、その雪をかぶった尖とがった屋根の下から、すでにもう黒ずみかけた壁板すらも見せていた。それが一層そのあたり一帯を私に何か見知らないように思わせ出した。それから私はよくお前と連れ立って歩いたことのある森の中へも、まだかなり深い雪を分けながらはいって行って見た。やがて私は、どうやら見覚えのあるような気のする一本の樅もみの木を認め出した。が、漸やっとそれに近づいて見たら、その樅の中からギャッと鋭い鳥の啼なき声ごえがした。私がその前に立ち止まると、一羽の、ついぞ見かけたこともないような、青味を帯びた鳥がちょっと愕おどろいたように羽摶はばたいて飛び立ったが、すぐ他の枝に移ったままかえって私に挑みでもするように、再びギャッ、ギャッと啼き立てた。
私はそうやって見るまで、それには少しも気がつかずにいた。……
十二月五日
この数日、云いようもないほどよい天気だ。朝のうちはヴェランダ一ぱいに日が射し込んでいて、風もなく、とても温かだ。けさなどはとうとうそのヴェランダに小さな卓や椅子を持ち出して、まだ一面に雪に埋もれた谷を前にしながら、朝食をはじめた位だ。本当にこうして一人っきりでいるのはなんだか勿体もったいないようだ、と思いながら朝食に向っているうち、ひょいとすぐ目の前の枯れた灌木かんぼくの根もとへ目をやると、いつのまにか雉子きじが来ている。それも二羽、雪の中に餌をあさりながら、ごそごそと歩きまわっている……
「おい、来て御覧、雉子が来ているぞ」
私は恰あたかもお前が小屋の中に居でもするかのように想像して、声を低めてそう一人ごちながら、じっと息をつめてその雉子を見守っていた。お前がうっかり足音でも立てはしまいかと、それまで気づかいながら……
その途端、どこかの小屋で、屋根の雪がどおっと谷じゅうに響きわたるような音を立てながら雪崩なだれ落ちた。私は思わずどきりとしながら、まるで自分の足もとからのように二羽の雉子が飛び立ってゆくのを呆気にとられて見ていた。そのとき殆ど同時に、私は自分のすぐ傍に立ったまま、お前がそういう時の癖で、何も言わずに、ただ大きく目をみはりながら私をじっと見つめているのを、苦しいほどまざまざと感じた。
午後、私ははじめて谷の小屋を下りて、雪の中に埋まった村を一周りした。夏から秋にかけてしかこの村を知っていない私には、いま一様に雪をかぶっている森だの、道だの、釘づけになった小屋だのが、どれもこれも見覚えがありそうでいて、どうしてもその以前の姿を思い出されなかった。昔、私が好んで歩きまわった水車の道
に沿って、いつか私の知らない間に、小さなカトリック教会さえ出来ていた。しかもその美しい素木造しらきづくりの教会は、その雪をかぶった尖とがった屋根の下から、すでにもう黒ずみかけた壁板すらも見せていた。それが一層そのあたり一帯を私に何か見知らないように思わせ出した。それから私はよくお前と連れ立って歩いたことのある森の中へも、まだかなり深い雪を分けながらはいって行って見た。やがて私は、どうやら見覚えのあるような気のする一本の樅もみの木を認め出した。が、漸やっとそれに近づいて見たら、その樅の中からギャッと鋭い鳥の啼なき声ごえがした。私がその前に立ち止まると、一羽の、ついぞ見かけたこともないような、青味を帯びた鳥がちょっと愕おどろいたように羽摶はばたいて飛び立ったが、すぐ他の枝に移ったままかえって私に挑みでもするように、再びギャッ、ギャッと啼き立てた。