起风了(5)
「…………」
彼女はその発作が鎮まっても、いつまでも苦しそうに身体をねじらせたまま、両手で顔を蔽おおいながら、ただ頷うなずいて見せた。
私は看護婦を呼びに行った。そして私に構わず先きに走っていった看護婦のすこし後から病室へはいって行くと、病人はその看護婦に両手で支えられるようにしながら、いくぶん楽そうな姿勢に返っていた。が、彼女はうつけたようにぼんやりと目を見ひらいているきりだった。咳の発作は一時止まったらしかった。
看護婦は彼女を支えていた手を少しずつ放しながら、
「もう止まったわね。……すこうし、そのままじっとしていらっしゃいね」と言って、乱れた毛布などを直したりしはじめた。「いま注射を頼んで来て上げるわ」
看護婦は部屋を出て行きながら、何処に居ていいか分らなくなってドアのところに棒立ちに立っていた私に、ちょっと耳打ちした。「すこし血痰を出してよ」
私はやっと彼女の枕元に近づいて行った。
彼女はぼんやりと目は見ひらいていたが、なんだか眠っているとしか思えなかった。私はその蒼ざめた額にほつれた小さな渦を巻いている髪を掻き上げてやりながら、その冷たく汗ばんだ額を私の手でそっと撫でた。彼女はやっと私の温かい存在をそれに感じでもしたかのように、ちらっと謎のような微笑を脣くちびるに漂わせた。
絶対安静の日々が続いた。
病室の窓はすっかり黄色い日覆を卸おろされ、中は薄暗くされていた。看護婦達も足を爪立てて歩いた。私は殆んど病人の枕元に附きっきりでいた。夜伽よとぎも一人で引き受けていた。ときどき病人は私の方を見て何か言い出しそうにした。私はそれを言わせないように、すぐ指を私の口にあてた。
そのような沈黙が、私達をそれぞれ各自の考えの裡に引っ込ませていた。が、私達はただ相手が何を考えているのかを、痛いほどはっきりと感じ合っていた。そして私が、今度の出来事を恰あたかも自分のために病人が犠牲にしていて呉れたものが、ただ目に見えるものに変っただけかのように思いつめている間、病人はまた病人で、これまで二人してあんなにも細心に細心にと育て上げてきたものを自分の軽はずみから一瞬に打ち壊してしまいでもしたように悔いているらしいのが、はっきりと私に感じられた。
そしてそういう自分の犠牲を犠牲ともしないで、自分の軽はずみなことばかりを責めているように見える病人のいじらしい気持が、私の心をしめつけていた。そういう犠牲をまで病人に当然の代償のように払わせながら、それがいつ死の床になるかも知れぬようなベッドで、こうして病人と共に愉たのしむようにして味わっている生の快楽――それこそ私達を、この上なく幸福にさせてくれるものだと私達が信じているもの、――それは果して私達を本当に満足させ了おおせるものだろうか? 私達がいま私達の幸福だと思っているものは、私達がそれを信じているよりは、もっと束の間のもの、もっと気まぐれに近いようなものではないだろうか? ……