大正メビウスライン帝都備忘録ドラマCD ミサキ編 『神の呼び声』ステラウース特典SS
文:中条ローザ
京一郎が人として現世に在った頃、桃花咲き乱れるあの場所は、ふたりにとって逃げ場であり、また囚われの獄でもあった。現世では不可能な*喵喵喵*愛を可能にしてはくれるけれども、決して永く留まってはいられないところ。もしも京一郎が「ずっとこのままここにいたい」と言ってしまったなら、馥郁たる花枝は即座に牢格子へと成り変わる、あやうい脆い楽園だった。
しかしもう、いまは——。
広い背中で揺られながら、京一郎は言った。
「ねえミサキ。すっかり日が暮れてしまったね?」
「ああ、そうだな」
「ついでに雨も降りそうだね?」
「まあな」
「寒いし」
月も狐火もない真っ暗闇の深山幽谷、京一郎を背負って獣道を行くミサキは、ついに相槌も返さなくなった。
「熊に出くわしたら困るし」
「……あーもう、遠回しにチクチク言うのはよしゃあがれっ。はいはい、俺ぁ神様のくせに道を間違えたよ、悪かったなっ」
「あ、やっぱり迷ったんだ?」
そんな気がしてたんだよな、と言うと、ミサキは拗ねたような舌打ちをする。
迷ったならば根の路へ下ってもよかろうに、なぜミサキは、分霊となって以降の京一郎を根の路へ連れて行きたがらなかった。それはおそらく、理を枉げて育み直された京一郎は極めて不安定な存在であり、ゆえに、黄泉の風にさらわれてしまいかねないとミサキ危惧していたからではないか……と京一郎は推測する。
——いまの私なら、もう大丈夫なのにな。
こと京一郎に関する限り心配性で過保護で甘やかしなミサキの性質は、人であった頃よりも重篤の度を増しており、それが煩わしいかといえば逆で、むしろ嬉しい。こうして幼子扱いでミサキに背負われるのも悪くない。
とはいえ山また山の眺めは最高いつ果てるとも知れず、このままでは野宿となること必定である。
「ねえミサキ」
「なんだよ。言っとくがこの山にゃ温泉はねえぞ。おとなしく俺に運ばれてやがれ」
ミサキの耳元へ唇を寄せた。
「そうじゃなくてさ…… あそこへ行こう?」
ひたすらに心地よい、あの薄闇へ。
「あそこで、夜を過ごそう?」
花の帳に包まれた、ふたりだけの巣へ。
「私を連れて行って……ミサキ」
ねだりながら耳朶を甘く咬んだ。抱いてよ、と、吐息よりもひそやかに囁いた。
「……この性悪め」
ミサキの声が、ふいに艶を帯びた。
背から降ろされたと思う間もなく抱きすくめられ、深く口付けられる。
夜啼く鳥の声も消え、墨流しの闇は明るみ、たちまちにふたりは、誰も知らず天津におわす神さえ知らぬあの場所へ、なににも惑わされず時さえ流れぬあの場所へ——。