草の親しみ 薄田泣菫 ススキだ キュウキン
2023-08-20 来源:百合文库
一雨夕立が来そうな空模様でした。砂ぼこりの立つ野道を急いでいると、一人の農夫が気忙しいそうに刈り草を掻き集めているのに出会いました。高い草の匂いがぷんぷん四辺に散らばっていました。それを嗅ぐと私のあゆみは自然に遅くなりました。私が牡牛のように大きく鼻の孔を開けて、胸いっぱいに空気を吸い込みました。
言おうようのないなつかしい草の匂い。その前に立つと、私は一瞬うちに、蓬、萱、野菊、犬蓼、杉菜、露草、すいつぱーといったような、刈り倒された草の名を数珠つなぎに思い浮かべて、それぞれの草の持っている思想を、踏まれても、引きちぎられても、伸びずにはおかないその生命の髄を嗅ぎ知るのみならず、どうかすると、これらの雑草の歯触りまで味わえいたような気持ちがすることがあります。私は生まれつき牛の愚鈍と正直と辛抱強さなどと一緒に、牛の嗅覚も持っているのかもしれません。今一つ牛の持っている大きな胃の腑があったなら、私は彼らと同じように、極端な菜食主義者となったかもしれません。私は実際そう信じています。
草に対するこうした親しみは、どこから来るものでしょうか。
私にとって、草はよしそれがどんなに小さい、果敢ないものであっても、それは地に潜めている生命の眼であります。触覚であります。温覚であります。『生命』というものは、それがどんなに気まぐれな、徒らな表現をとっても、そこには美があり、力があり、光輝があります。よろずの物の中で、草に現れた生命ほど、謙遜で、素朴で、正直で、そして、辛抱強いものはたんとありますまい。草こそは私にとって『言葉』であります。暫くの間もじっとしていられない不思議な存在であります。蹄がないばかりに、同じところにたち止まっている小さな獣であります。声帯がないばかりに、沈黙を持ち続けている小鳥であります。